フィリピン セブ ソーシャルボランティア体験談
栞里 大学 3年
私は2ヶ月前に友人とセブ島に旅行に来ました。
実際、セブ島に来ると、物乞いをしている子供や路上で寝ている赤ん坊が平然といて、通行人も彼らを気にも止めず、当たり前のように生活していました。
その光景を目の当たりにした時、きれいな海と、物価の安い街でのショッピングだけを想像していた自分に罪悪感を覚え、物やお金を観光客にせがむ、怖くてかわいそうなこの子供達の力になりたいと思いこのソーシャルボランティアに参加しました。
そして、実際に活動を終えた今、罪悪感という身勝手で上から目線な感情を抱いていたことや、子供達を恐怖や哀れなものの対象として見たことを恥じています。
そもそもこのような感情を持つ経緯として、どこかで自分たちの方が幸せで、彼らは不幸と思っていたからだと気付きました。
子供達は笑顔にあふれていて、いつも明るく、力強く生きていました。彼らが物乞いをするのは生きるための行動であり、そのための1つのツールに過ぎないのだと感じました。
驚いたことが家庭の中心となる姿、社会全体の貧困層への興味の薄さなどです。
スラムやゴミ山はそれ自体が言葉にならない衝撃でした。
これらは全てこの活動にとった行動がとても印象に残っています。
彼女はゴミの山から小さなぼろぼろの額縁に入った何かの絵を拾い、それを持ったまま歩きだしました。
私は何かお金になるのかと思い、それは何かと尋ねました。
すると彼女は神様だよ、とその絵を見せてくれました。
そこにはキリストの絵が描かれていました。
信じられないと思いました。
私はこの環境に生まれたら神様なんて恨むし、嫌いになるし、そもそも信じないと思います。
しかし彼女はゴミの中にそれを見つけて大切そうに持っていました。
それを見て、彼女にとってこの環境は恨むべきものでなく、それどころかここに生まれてもなお、神に感謝して生きているという精神的な強さに大きな衝撃を受けました。
また、その宗教の考え方により中絶や避妊が出来ないことが貧困層の拡大に繋がっていることが頭をよぎり、この皮肉的な出来事を目の当たりにして非常に複雑な気持ちになりました。
偶然その国に生まれ、偶然生まれた場所がゴミ山で、偶然生まれた家庭が貧しく、偶然生まれた国がカトリックだっただけで、どうしてこんなにも差が出てしまうのだろうと思うと同時に、自分にはなにも出来ないという無力さを感じました。
ストリートチルドレンやスラムの子供達も同じで、彼らには何の罪もなく、社会や歴史の被害者であるということ、それは自分には変えられないこと、そして何よりも、彼らには被害者意識がなく、常に笑顔だったこと、これらを身をもって感じられた日々でした。
セブでのボランティア活動で得たこの気持ちを忘れずに、自分に出来ることを考え、一生懸命生きていきたいと思います。
2017年8月17日~23日
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