洵  一橋大学3年

最初のボランティア日は墓地と山岳地帯を訪問した。

生ゴミの腐った臭いや今にも壊れそうな建物を見てスラムに来た実感が湧く。

それも束の間子供達の無邪気な表情や人懐っこさに心が温 まった。

2日目はスラムの家庭訪問と青空教室に参加した。

「子供が5人以上いないと生活保護 は出ない」「最低賃金は408ペソ」などの問題がある中で現状への満足 度は10/10と答える人もいるなど貧困と心の豊かさをつなげて考えるのは必ずしも正しいことでは ないと感じた。

3日目は川の上のスラムとゴミ山へ訪問した。

特にゴミ山はこれまで訪問したスラ ムの中で最も生活環境が劣悪だったように思える。

他のスラムでは肉体労働やサービス業など で生計を立てている人が多いのに対して、ここの人々はゴミという我々から見たら最も役に立た なくて見たくも触りたくもないものを生業としていた。

それでも子供たちは相変わらず笑顔に包ま れていた。

最終日は学校を訪問した。

以上を振り返ったところ今まで私にはなかった視点を持つ ことができた。

それは必ずしも「物質的豊かさ」と「心の豊かさ」は比例関係に無いということであ る。

日本では食料や教育などは当たり前に享受できるが、フィリピンのスラムではそれもままならな い。

しかし日本にいると何かと憂鬱になることが多い。

それはこれらのことが「当たり前」だと錯覚 してしまっているからだ。

食事前、後の「いただきます」「ごちそうさま」をどれだけの人が本当に感 謝して言っているのだろうか。

これはあくまで礼儀であり、実際に生産者や料理人そして食べ物 に対する感謝などは大して意識していないことが多いように感じる。

対して食事配給の時、フィリ ピンの子供達からは真心のこもった「ありがとう」を聞けた気がする。

そして我々から見れば「当たり前」のこと一つ一つが彼らにとっては幸せそのものであり些細なことでも満足できることが彼ら の「心の豊かさ」につながっているのだと思う。

貧困層を「かわいそう」とか「惨めだ」と思うのはメ ディアや授業を通して得た偏見に満ちた恵まれている人達の価値観であり、間違った見方であ る。

当たり前で些細なことにも感謝する謙虚さこそが毎日を幸せに過ごす最適解だと感じた。

では貧しい人達でも幸せならボランティア活動は必要ないのではないかと言われるかもしれないがそれは違う。

今が幸せでも子供達が独り立ちした場合、自分の力で生きていかなければならな い。

彼らが生きる社会はいつでも仕事が見つかる日本みたいに甘いものではない。

彼らは安定し た仕事を持ち、安定した暮らしをおくる必要がある。

自分の力で得る幸せほど満足感が高いのは 我々だろうが彼らだろうが同じはずだ。

食事配給や教育費など生活に必要な物資を送ることで自 分の力で生きられるようにさせることこそがこのボランティアが存在する意義であると思う。

2024年2月

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