りょう 神戸市外国語大学2年
私がグローリアセブのプログラムに参加しようと思ったきっかけは「友達に誘われたから」で、比較的軽めな気持ちであった。
そのため活動の写真などを事前にしっかり見ておらず、正直中途半端な気持ちでセブに向かった。
リゾート地としての側面しか知らなかったため、目にする光景全てが衝撃だった。
破れた服を着た子どもたち、細くやせ細った犬や猫、髪を十分にとかないまま赤ん坊を抱いている母親、出たごみを当然のように地面に投げ捨てる子供たちの姿、そしてそのゴミで埋もれた道、大量に群がるハエなど、数え切れないほどの光景が目に焼き付いている。
忘れられない光景であったし、忘れてはならない光景であると感じた。
そんな壮絶な環境の中で、そんな環境の中なのに、大げさな比喩とかではなく、子供たちは太陽のように輝いていた。
私たちの乗っている車に気付いた瞬間駆け寄ってきてくれて、初めて見る外国人を手を引いて連れてってくれて、たくさん話しかけてくれて、興味を向けてくれた。
交流をしていると、そこが衝撃を受けた場所だと忘れるくらい「普通の」、「子供らしさ全開の」、楽しい時間が流れた。
しかし接する中でその子供たちからスラム特有の匂いを感じたり、服が破れていることや、歯が溶けていたりするのを見ると現実に引き戻されるということが何度もあった。
また訪れるエリアの子供たちの英語の理解度や秩序を守ろうとする態度などから、教育を十分に受けられているか否かが大体の見当がつく点も非常に興味深かった。
学校教育という場が学術的な勉強を教えるためだけの場所ではなく、集団生活でのルールやけじめのつけ方なども学ぶための場所であることを再確認した。
海外である、ということに加えて自分の周りではあまり目にすることのない環境であったため、何度も自分の中の当たり前が壊された。
大学の講義や何らかの媒体で目にした記事ではなく、実際に足を運んで現地の人々と交流したからこそ、より一層貧困による世代を超えた悪循環という問題にもどかしさを感じた。
何を考えるにしても、結局「お金がないから」に行きつきてしまい、自分の力では直接的に変化を起こせる問題ではないと気づいて、不甲斐なさを感じてしまった。
自分の今回の活動も結局は一時的な、その場しのぎのサポートであって、自己満になってしまわないかと何回も考えさせられることがあった。
しかし、この気づきもまたこのプログラムに参加したことによる財産の一つなのではないかと思った。
さらに今回の活動は一部をお手伝いできたに過ぎない、という事実も忘れてはならないと感じた。
セブの中でもまだまだ。食事配給さえしてもらえない人々もいると思うし、世界単位でみたら数えきれないほどいる。
だから、せっかくの今回の経験をどんな形であれ、継続して次につなげよう、必ず自らアクションを起こそうと強く決意した。
2025.03.12
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