日菜乃 日本女子大学2年

フィリピンにおける貧困の状況は当初私が考えていたものより大きく、一筋縄ではいかないような深い問題であると今回認識できた。

ボランティア活動のために足を運んだスラム地区は、それぞれその場所に合った仕事や、家の建てられ方をしていたが、どれも現時点での最善に過ぎず貧困の連鎖から抜け出すような一端を見ることは出来なかった。

辛うじて現状維持は出来ているが、住人の数に対してとても狭い家に住んでいたり、台風が来る度に浸水していたり、明らかに不十分な生活環境であることは間違いなかった。

どの家も親の仕事を子供が手伝うような形をとっており、子供の成長を見るとやはり身体的に満足できる食生活には届いていなかったのが実情だ。

そもそも親の最終学歴が良くて小卒と聞き、彼ら親たちにとって職業を選択する余地もないことを知った。

それはもちろん十分なお金がなく学校に通えなくなってしまうという原因もあるが、フィリピンでは大学を卒業しても上手くいってマクドナルドなど、私達日本人なら学生でも働けるような場所でしか働けないのだ。

ここで初めて私は、貧困問題の輪郭を掴めたのだと知った。

元々、路上で物売りをするような家庭にお金がないのは、売る商品が環境的に充実しておらずかつ、買う人がいないからだと考えてきた。しかし、仕事がないからお金がないという単純だが重大な現実に辿り着いた。

そのため、フィリピンがなぜ貧困社会なのかと問われたら「大学を卒業しているのにも関わらず、ファストフード店でしか働けないような社会だからであり、雇用の機会が圧倒的に少ないからだ」と私は答える。

フィリピンの人口は日本とほぼ同じで約1.2億人だ。

しかしながら、大学を卒業しても定職に就けないとなると大金を払ってまで親は子を学校に行かせたくはないだろう。

そうなると高校までの義務教育を当然終えることが出来ないまま大人になる。

この、学校に行ける選択肢を持つ家庭だけでもまず掬うことができるよう、フィリピン政府は雇用の機会を増やす必要があり、そのためにもフィリピン独自の産業を育てていかなければならない。

次に、学校に行くという選択肢すら持てない家庭は親の仕事を手伝わなければならない現状にあるということを知った。

この親と子、2世代のみではなく、子の親も、自分の親がやってきた仕事を手伝う幼少期であった上に、彼ら自身学校に通っていないので、それ以外の仕事が出来ないのである。

そのためフィリピンが抱える現在の課題は大卒者に対し十分な雇用を提供すること、子供に教育を受けさせること、この二点だと私は結論づけた。

貧困層と呼ばれる人々の暮らしは冒頭でも軽く触れたように、住人に対して居住スペースが余りにも狭かった。

そして、木造なので火に弱くどこかで火事が起きると、その一帯が燃えて更地になってしまう。

川の近くに住んでいることも多いため、台風が起きると洪水が起きる。

仕事はミートボールや野菜スープを売ったり、洗濯をしたりしている。

基本的に母親がこのような毎日少額だが稼げる仕事をし、父親は重労働などの日雇い仕事を主に行う。

そのため、一定のお金を稼ぐことが出来る女性が一家の大黒柱として働くそうだ。

しかし、一日の収入は約300ペソである。

この金額は少し豪勢な食事一食分だ。とてもじゃないが、この金額を6人、又は7人家族分なので彼らは一日に一食しか食べることができず、その分体も細い。

しかし、私達が食事配給を行うと笑顔で順番を守り、時には幼い子供を優先して食事を受け取っている姿を見てこの道徳的な精神は親や周りの大人たちから継いだのだと思った。

学校教育がなくともこのような思いやりを身に着けることが出来ておりその地域が生んだ賜物だと感じた。

そんな彼らにとっての娯楽はk-pop音楽を聴いたり、tiktokを撮ったりすることだ。

まず、スマートフォンを持っていることに私は驚いた。勝手に現代的な娯楽のない生活をしていると予想していたからだ。

フィリピン人は元々ダンスや歌が好きで、スーパーマーケットのBGMに合わせて歌っている店員さんをよく見かける。

だから貧困地域で暮らしている子供達もよくtiktokを撮影しており、ダンスが上手な子も多かった。

娯楽に貧富の差などなく、日本にいてもフィリピンにいても同じように好きなものを好きと言い、笑っている姿が印象的だった。

そして奨学金を貰って学校に通っている子供がいる家へ家庭訪問をした際に、「何をしている時が一番幸せか」と全ての家庭で尋ねた。

すると、どの家にいる親も子も「家族と一緒にいる時が幸せ」と答えていた。

子供達は皆、高校生くらいの年齢だったので、「家族といる時が幸せ」だと親の前で照れくさそうにもせず、笑顔で答えている姿に心が揺さぶられた。

特に、ある18歳の男の子の体には複数のタトゥーが彫られていてその全てには意味があった。

中でもチューリップの花が左腕に掘られており、それには母親への愛を込めたと話していた。

誇らしそうに話す彼の横顔を見て、彼らにとって家族がどれだけ大事なのか少し覗くことが出来たと思う。

そして「将来の夢はありますか」と尋ねたら皆、一瞬の考える素振りも見せず将来の夢を教えてくれた。

兵士、警察官、エンジニア、ビジネスウーマン、フライトアテンダント、と答えてくれたが、全ての子が家族を経済的に支援したい、大きな家を建てたいという家族思いから生まれた夢だった。

同時に色々な国に行って世界を見たいという動機もあった。殆どの貧困層の人々は国内旅行にも行ったことがないので、だからこその夢だなと私は感じる。

その時に行ってみたい国も併せて聞いたらアメリカ、イギリス、フランス、中国、韓国、日本と沢山答えてくれて、日本にも行きたいと思ってくれていることが嬉しかった。

日本で綺麗な桜を見たいと目を輝かせていて、本当に嬉しかった。

しかし、きっと、彼ら一生涯日本に訪れることはできないだろう。

毎日、前向きに、笑顔で、ひたむきに生きていることは素晴らしく、私が一生かかっても得られないような強さだと思う。

だが、それでもこの貧困問題はとてつもなく巨大だ。貧困が解消されない限り、日本で彼らと会う日は来ないだろう。

なぜならフィリピン政府が支援金で家を与える等の政策をきちんと執っているのにも関わらず、有名で綺麗なショッピングモールの目の前にスラム街があるからだ。

あまりにも近かったその距離は、貧富の差を無理やり一つの額縁に収めたようだった。

とても衝撃的で私の目には極めて不自然に映った。

フィリピンに来なければ一生見ることができなかった景色を見て、私達に何が出来るのか、何をしなければならないのか、考えさせられた。

日本で大学生や社会人が出来ることとなると、やはり微力な支援に限られてしまうと考える。

大学生には社会人よりも比較的時間があることが多いので、夏休みや春休みを使ってまず自分の目で現場を見る経験をした方が良いのではないかと思う。

そこで糧にしつつ食事配給などの活動をするべきだ。

ただ、そう簡単に行動に移せない環境に居る人も勿論いる。

そのため、私達が継続的に出来る支援は、洋服や文房具などを貧困地域に送ることだ。

日本からでも実行可能なことであり、貧しい生活への直接的な支援に繋がる。

今回の活動でも、ボランティアの方が洋服や文房具を寄付してくれた。

さらに、活動でも食事配給と共に、一度だけ洋服や靴の寄付を行った。

子供達は新しい服や靴が手に入ってとても嬉しそうだった。

他には、インターネットが普及しているからこそ可能な、ネット上の募金などが挙げられる。

微々たるものではあるが、このようなサポートは現地の人々にとっては十分助けになるだろう。  

最後に、今回このインターンに参加して一番強く思ったことは、自分の目で見ることの大切さもそうだが、それ以上にメディア戦略に良い意味で上手く嵌められていたということだ。

今までニュースや動画など様々なもので貧困地域の様子、そこで暮らす子供達の表情を見てきた。

だからこそ、可哀そうと感じ何か出来ることはないか私なりに模索し、コンサルタントや日本語教師という職業に興味を持ち、今回セブ島まで来た。

想像を大きく裏切られ、子供達が沢山笑っていたから最初に子供達と一緒にアクティビティを行った時はただただ楽しかった。

その上、ボランティア先からの帰りの車内で私は妙に安心してしまっていた。

それは彼らが幸せそうで良かったという思いとさらに、早急に問題を解決しなければならないという身勝手な使命感が落ち着いてしまったからだ。

きっとこの落ち着きは初めて実態を眼にした人はおおよそ感じてしまうのではないかと思う。

しかし、彼らの考え方、価値観によって彼らが幸せであるだけで、客観視した時に彼らの生活までもが幸せだと勘違いしてはいけない。

笑顔で食事をしている女の子の服はボロボロで爪は長く、足にはハエが止まっていた。「豊か」という種類の幸せを知ってもらわなければならないのだ。

そのため、冒頭で述べたように教育体制の改善、フィリピン独自産業の発展を促し雇用の機会を増やすべきである。

そこで私はSDGsなどを掲げている開発系コンサルタント職に就き、発展途上国の支援を、私個人としてではなく一会社として行うことを考えた。

組織として強大な支援が効率的に出来るのではと予想したからだ。

フィリピン政府自体に国内の貧困問題を全て解消させるような財力は勿論なく、これはどの国にも大変難しいことである。

故に、国際連合のような国際規模の協力体制を創出しているのだ。

着実にこういった機関の成果により年々貧困層は減少してきはいるが、それでもまだ達成には至っていないため2年後、社会人になる際には発展途上国の支援が出来るような機関、会社に勤めたい。

私が社会人として生きる数十年、出来るだけ沢山の家族を掬い上げ今以上に幸せにしたいと強く思う。

2023年2月~3月